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春の蔵出し。にしてはちょっと遅いか……。
■内容■
タイトル「Is This Love ?」
バルアシェ現パラThisIsLoveシリーズ四年前。
バルフラ。
誰得。
+ + +
多分当サイト史上最高に、これは一体誰が楽しいの、というお話。
TILシリーズだけど四年前なのでアーシェ出てきません。片鱗もありません。
バルフラだけどTILシリーズなので結末はご想像の通り。
おそらく当サイトにはバルフラ好きさんはいらしてないだろうし、いやカプ萌えが出来るかと言えば絶対出来ないんだけど、かといってキャラ萌えもきっと出来ない。むしろ気持ち悪い。
何でそんなのを書いたかと言えば、小ネタ(とタイトル)を頂いて、あらそれで伏線回収できちゃうじゃない!と舞い上がっちゃったからです。
そんな誰得SS。
■内容■
タイトル「Is This Love ?」
バルアシェ現パラThisIsLoveシリーズ四年前。
バルフラ。
誰得。
+ + +
多分当サイト史上最高に、これは一体誰が楽しいの、というお話。
TILシリーズだけど四年前なのでアーシェ出てきません。片鱗もありません。
バルフラだけどTILシリーズなので結末はご想像の通り。
おそらく当サイトにはバルフラ好きさんはいらしてないだろうし、いやカプ萌えが出来るかと言えば絶対出来ないんだけど、かといってキャラ萌えもきっと出来ない。むしろ気持ち悪い。
何でそんなのを書いたかと言えば、小ネタ(とタイトル)を頂いて、あらそれで伏線回収できちゃうじゃない!と舞い上がっちゃったからです。
そんな誰得SS。
+ + +
最初の記憶は母親が死んだ時のことだ。
物心ついて間もない頃、死なんて概念を理解出来るはずもないあの時、けれどとても大切な何かを失ったということだけは分かっていたようで、ひどく大泣きして手に負えなかったと後になって言われた。
そんなことは覚えちゃいない。
覚えているのは、あの頃は自分の倍も大きかったフランの手のひらに手を繋がれていたこと、見下ろす優しい笑顔、囁かれた台詞。
──大丈夫よ。私が、ずっと一緒にいるから。
+ + +
フランの言葉は嘘ではなかった。
何しろ、人形遊びが何よりも好きな女だ。性別に多少難を感じはしただろうが、手に入れた等身大の人形が余程嬉しかったのだろう、それはそれは献身的に世話を焼いてくれた。
自分だって小学校に上がりたてのほんの子どもでしかなかった癖に、保育園の弁当にと、ひどく不格好な具のない握り飯だのバターも塗らずにハムを挟んだだけのサンドイッチだのを、せっせと作っては持たせてくれた。
仕事一辺倒で息子の成長に気付かない父親に代わり、店に引っ張っていってはあれやこれやと、服だの靴だの身の回りの物を揃えてくれた。
ままごと気分とは言え、着替えや食事は勿論、風呂や添い寝までをこなすその姿は、正に母親のようだった。
フランは、ずっと傍にいる。
子どもが母親を慕うように、当たり前の気持ちでそれを期待した。そしてその期待は、母が子に注ぐ愛のように、絶対に自分を裏切ることはないと思っていた。
フランはずっと、傍にいる。
フランさえいれば、それでいい。
フランへのこの執着を、マザコンというのなら自分は確かにマザコンなのだろうし、恋というのなら自分の初恋は間違いなくフランだ。
つまり、フランは完璧だった。
自分にとっての世界は、フランで全てだった。
+ + +
「随分と遅いお帰りね」
自室の扉を開けたその瞬間、部屋の中から声を掛けられ、思わず立ち竦んだ。
誰もいないはずの部屋だから、という理由ではない。夜遊びを咎められると思ったから、でもない。
視界が白い。
「叔父様のお帰りが遅いからって、羽を伸ばしすぎではない? 高校生の出歩く時間じゃないわよ」
「──フラン」
その健全であるべき高校生の部屋で、お前は何をやってんだ。
突っ込みたい気持ちを堪え、その真ん前を──つまり部屋の中央を横切り、窓を全開にする。床のラグに腰を下ろし、ベッドに寄り掛かった格好で、フランは紫煙を燻らせていた。
「お前。人の部屋燻すなよ」
「あら。あなたの机の上にあったんだけど」
片付けるのを忘れていた。舌を打ったその時、フランが、瞳を細めてこちらを見た。
「やめておきなさい。子どもの吸う物じゃないわ」
「偉そうに。お前、俺といくつも変わんねぇだろ」
「同じ18歳でも、高校生とそれ以外の差は大きいわよ」
そして、私はきちんと20歳を超えているわ。
含み笑いをして、煙草の端を咥える。咥えると言うよりは、差し込む。ほとんど唇を開けない、そんな吸い方だ。
「心配してるのよ。背が伸びなくなるでしょう」
「180超えてりゃ十分だ」
「でも、私より低いじゃない」
さらりと地雷を踏まれた。
こちらの機嫌というかプライドというかが絶妙に損なわれたのを察したのだろう、フランは、長々と煙を吐いた後に、言った。
「……ま、男の価値は身長じゃないけど」
「それ、このタイミングで言われても、全く信憑性感じねぇ」
「あら。本当よ」
赤い唇が、に、と笑う。お前こそ何時だと思ってんだ。化粧落とせよ。心中で毒突く。
「デートだった?」
灰皿に灰を落としながら、フランが言う。話題を逸らしたこと──つまり、こちらの機嫌を取ろうとしていること、が分かった。
「だったら何だよ」
「この前一緒に歩いてたあの子でしょ? 連れてきてくれればいいのに」
可愛いお店見つけたのよね。紫煙と一緒に言葉が漏れる。このところ、フランの着せ替え人形のターゲットは、そろそろ反抗期も終盤の従弟ではなくその彼女、なのだ。
「冗談。嫌だね」
「独り占めしなくてもいいでしょう? あなたの彼女、可愛いから。着飾らせ甲斐があるのよね」
物心付いて以来どっぷりフランに浸かってきたからか、それとも生来のものか。今となっては分からないが、フランと自分が選ぶ物はよく似ていた。食べ物や服装の趣味は勿論、女の好みまでが、呆れるほどに。
「服とメイクで可愛らしさ倍増の彼女、見たくはない?」
頬杖を突いたフランが、こちらを見上げてくる。
フランの腕を否定はしないが、それで機嫌を取っているつもりなら逆効果だ。目を眇めてフランを見下ろした。
「その甘言に乗って、デートおシャカにされんのはもう沢山」
過去にフランに会わせた女友達が、自分そっちのけでフランと盛り上がっていたのを思い出す。
「何でみんな、俺とじゃなくてお前といる方が楽しそうなんだか」
苦々しく言ったのに、フランがくすくす笑った。
「仕方ないわ。女の子だもの」
「意味分かんねぇ」
「可愛くなりたいに決まってるでしょう」
当たり前のように言われる。けれどその「当たり前」が、どうも目の前の従姉にはそぐわない。
「お前も?」
聞き返すと、フランは僅か、首を傾げた。
「どちらかといえば。可愛くしたい、かしら」
「……納得」
息を吐いて、窓際の壁に背を擦りながら腰を下ろす。早く煙が抜ければいいのに。思いながら、開けた窓から夜空を見上げる。
他人の煙草の煙は嫌いだ。冷えるような眩暈に溺れたい、欲求が誘発される。しかし、フランにああ言われた以上、吸えるはずもない。
「だってあなた。本気じゃないでしょう」
「──あ?」
聞こえた声に、振り返る。フランが、素知らぬ素振りで煙草の灰を落としている。
見やった瞬間、瞳に痛みが奔った。
「あ。て」
手のひらで片目を押さえる。残された視界の中で、フランがこちらを見た。
「どうしたの」
「コンタクト、ズレた」
目蓋を押さえて復帰を試みるが、戻らない。
「大丈夫?」
「ダメ。外す」
立ち上がろうとしたのに一歩先んじて、フランが机の上のコンタクトレンズのケースを取って寄越してくれた。
「サンキュ」
受け取ったケースの鏡を覗き込む。笑えるくらいにズレていた。痛みは笑い事ではないので慎重かつ迅速にコンタクトレンズを外していると、フランがふ、と溜息を吐いた。
「大変ね」
「仕方ねぇだろ」
視力は、矯正が必要な程度に悪い。
まだ小学生だった時分、学校から持ち帰った視力検査の結果をフランに見せるのが嫌だった。暗いところで本を読んでいるから、テレビに近付きすぎだから。普段言われ続けてきた小言を、ここぞとばかりに繰り返されると思ったのだ。
けれどフランは叱りはしなかった。紙切れに書かれた、一定値を下回った数値を見つめてほう、と溜息を吐いた後、叔父様もそうだから仕方がないわね、と諦めにも似た笑みを浮かべただけだった。
「眼鏡の方がいいのではない?」
中学に上がってコンタクトレンズが欲しいと言った時と同じ台詞。フランには体に異物を入れるということが想像できないようで、自身、派手に着飾った外見の割にはピアスの一つもあけていない。
「嫌だね」
こちらも当時と同じ台詞を返す。眼鏡は一々鬱陶しいし、体育の授業で邪魔になる。コンタクトレンズも面倒ではあるが、自分にとってはこっちの方が格段にQOLは上だ。
「はい」
コンタクトレンズを外した頃合いを見計らって、眼鏡が差し出された。
「いい。コンタクト入れ直す」
「後はもう寝るだけでしょう? 外してしまえばいいじゃない」
「あー……」
それもそうか。思って、コンタクトレンズを片付け、眼鏡を掛けた。素直な態度が気に入ったのか、フランが満足そうに微笑む。
「それで、何だって?」
「何?」
「さっき、何か言いかけただろ」
「……あぁ」
会話の記憶を遡って、フランは小さく頷いた。
「あなたが本気じゃないから、という話よ」
「それ。何がだよ」
訊いたのに、フランは薄く笑みを浮かべる。何やら小さな石だのラメだのが光る長い爪の指が、吸い差しの煙草を灰皿に押し付けた。
「暇つぶしのつもり? それとも、経験値を上げたいのかしら」
「だから、何が」
訊き返した瞬間、それが少し前に投げ掛けた問の別解なのだと思い至った。
唇で微笑しこちらを眺めるフランの表情は常と変わりなく、口調も穏やかだ。が、煙草を揉み消したその仕草が暗に自分を責めているようで、思わず、僅か、身を竦ませた。
「そんなつもりはねぇ、けど」
「そう」
それ以上は何も言わず、フランはコンビニの袋から飲料の缶を取り出した。気付けば、ローテーブルの上には既に中身がないらしい缶がいくつか載っている。
つまみも一緒に食え。てか酒と煙草のコンボはやめろ。
忠告を口にする気にはなれず、大方煙が抜けたのを確認して窓を閉めた。向かい合わせに座るのは気まずくて、視線を避けるように、フランが背凭れにしているベッドに腰を落ち着ける。
フランは、ごてごてと飾り付けた爪で器用に開けた缶を、素知らぬ顔で傾けている。その姿を眺めているうち、じり、と苛立ちが湧く。
人の気も知らないで。
睨む視線にも、フランは気付かない。そのことにまた、苛立ちが募る。
お前はどうでもいいのか。俺が他の女に本気になっても、何とも思わねぇのかよ?
吐き出しそうになって、呑み込む。
こんなことは、初めてじゃない。15になったら、18になったら、フランの身長を超えたら。関係性を変えようと思ったことは何度もあって、けれどその度に怯んだ。拒絶されるのが怖かった。
自分にとって、フランは全てだ。フランに拒絶されたら、身長でからかわれることの比じゃない。絶対に立ち直れない。
長く伸ばした髪。挑発的な服。長い爪、飾るアクセサリ、化粧。
そんな物、塗らなくていいのに。缶に触れた唇を見て思う。高校を卒業して以降のフランは、実際の年齢差よりも随分と遠く、大人に感じる。
焦る。
「──あなたも飲む?」
「あ?」
缶を一つ、こちらに差し出しながら、フランが首を傾げる。それで気付いた。
手を、伸ばしかけていた。
「──馬鹿。酒だろ、それ」
中途半端に宙に浮いていた手を取り繕うため、そっち、とスポーツドリンクのペットボトルを指さす。フランはそうね、と笑いながら缶を戻して、ペットボトルを取って寄越した。
ヤバイ。
手の中のペットボトルを握り締める。行き場を失った衝動を、ペットボトルの蓋を開ける力に無理矢理変換する。
馬鹿じゃねぇの。何しようとしてんだよ俺?
灯った熱を冷ますように、スポーツドリンクを喉に流し込む。酒を呷った後のように、深く息を吐き出す。
15になって、18になった。フランの身長を超えることはどうやら出来なさそうだと、薄々察し始めた。自分で設置しては見送り続けたハードルの、最後の一つはどう足掻いても越えられそうにない。
だったら、このままでいい。
約束したのだ。フランはずっと、傍にいる。
馬鹿なことを言い出して、わざわざこの心地よい関係を壊す必要などない。
このままで、いいじゃないか。
「……つか、お前さ」
何気ない顔で、口を開く。炭酸入りだろうに、指先で摘むように持った缶をゆらゆら揺らしていたフランが、ゆっくりとこちらを向いた。
「人の女にちょっかい出すよりか、他にやることあんだろ。週末の夜に、相手してくれる男の一人もいねぇの?」
若い女が従弟相手に酒盛りってのはどうなんだ。
言うと、フランは、殊更のように目を見開いた。
「心外だわ。相手をしてもらうために、わざわざ足繁くここに出向いてるっていうのに」
「……は?」
一瞬、思考が止まった。
どういう意味だ。
相当に間抜けな顔をしていたのだろう。こちらをしみじみ見やって、フランはほう、と呆れたように息を吐く。
「男って、どうしてこう鈍感なのかしら」
呟いて、フランはまた煙草に手を伸ばす。しなやかで優雅、豪奢な印象の手に全く似合わない、安っぽいライターに火が点るのを呆然と見つめる。
だから、酒と煙草のコンボは。せっかく煙が抜けたのに。いや、そんなことはどうでもいい。それこそどうでもいいことばかりが頭の中を渦巻いて、言葉が口から出て来ない。
まさか。
その相手って、
「……お前。酔ってんな?」
何を言っていいか分からない。ようやく口から出たのは、そんな言葉だった。
「酔ってないわ」
「嘘吐け」
「本当よ」
「信用できるか」
次々とさり気ない振りで繰り出した言葉には、しかし明らかに動揺が滲んでいた。指に煙草を挟んだ手で頬杖を突きながら、フランはくすくす笑う。
「大変な驚きようね」
「……うるせぇよ」
フランに虚勢は無意味だ。誤魔化すのはやめて、素直に息を吐く。
「気が付かなかった?」
「だってお前。今まで、そんな素振り」
「だから鈍感だって言うのよ。何年越しだと思ってるの?」
15年だ。
フランが自分の母親になってからの年月なら──自分がフランを思い続けてきた時間の長さなら、即座に答えられる。けれどいつ、フランが母親としてでなく自分を見つめ始めたのかなんて、そんなことは分からない。
分からないが、
──うわ、ヤバイ。
両手のひらで、頬から首筋を擦る。抑えようもなく笑みが浮かんでしまう唇を、覆う。
すげぇ嬉しい、かも。
視線を上げると、フランと目が合った。手のひらが、呼ぶ。
寄り掛かっていた壁から離れてベッドの縁までにじり寄ると、煙草を持たない方の綺麗に彩った長い爪の指が伸びてきて、短い前髪をそっと掻き上げた。
中学までは、特に何もせず下ろしていた。高校に上がってある程度髪型の自由が利くようになった頃、フランに言われた。前髪は上げた方が似合うわ、と。
今も、前髪は上げている。整髪料で固めていて大して手触りもよくないだろう髪に、フランは柔らかく指を通す。
愛おしむ手付き。
今まで数え切れないほどそうされた、けれど今のこれはきっと意味合いが違う。
「──」
フラン。
呼ぼうとした声は、みっともなく喉に絡みついて出て来なかった。だから声もなくただ見つめれば、赤い瞳が気付いて優しく微笑む。
抱き締めたい。
込み上げた衝動をいつものように呑み込もうとして、気付く。もう、堪える必要はないのだ。
触れられるばかりでなく、触れたい。
フランがまだ長い煙草を灰皿に押し付けた。最後の煙が立ち上り、溶けていく。
こちらを見やる瞳、伸ばされる手、その手を掴む権利が自分にはあるのだ、冷たい手のひらが頬に触れる、温めてやりたい、しなやかなその手を包み込もうとした瞬間。
「本当に、似てるわね」
うっとりと微笑みながら、フランが呟いた。
「……あ?」
時間が止まったような気がした。気のせいだ。やたら秒針の音がやかましい枕元の時計が、きちんと時を刻んでいる。
こんな時に、何の話だ。
タイミングを失って空を掻いた手を、ベッドカバーの上に戻す。フランはただ、無心に髪を梳き撫でている。
「あの人、若い頃は、こんな顔してたのかしら」
囁く声。その声に、眉を顰める。
「……何だって?」
答えを返さないまま、フランがこちらの手を引く。引かれるまま、ずるりとベッドから降りる。細い指がそっと、頬の線を辿った。
「──あの人も、こんな顔、するのかしら」
見ているのに、見ていない瞳。
確かに視線は合っているのにどこか遠い瞳で見つめて、フランは笑った。
+ + +
何かがずれていく。
何かが、噛み合う。
あの人って、誰だよ。
訊くまでもない。幼い頃から言われ続けてきた。
自分は父親によく似ている、と。
髪を、頬を、フランは撫で続ける。その顔を、呆然と見つめる。
マジかよ。
だって、お前。
あいつは。
俺の。
お前にだって。
だから、
相手にされるわけがない。思って、気付く。
長く伸ばした髪。挑発的な服。長い爪、飾るアクセサリ、化粧。
具のない握り飯にハムを挟んだだけのサンドイッチ、与えられた服や靴。
固執した眼鏡と髪型。
──「叔父様もそうだから」、「前髪は上げた方が似合うわ」。
吐き気がする。
鼓動が、頭の中にまで響く鼓動が、うるさい。
まさか。
そんな馬鹿なこと、有り得ない。
否定したがる頭のどこかで、でもそれが間違いではないと知っている。
フランが実際の年齢よりも大人びて見える今の姿を選んだのは、
人形遊びの延長だろうがどれほどままごとめいていようが、
そうまでしてオ レ ノ ハ ハ オ ヤ ニ ナ ロ ウ ト シ タ リ ユ ウ ハ、
「そんな顔しないで」
頬に、手のひらが触れた。思わず、ぎくりと肩を揺らす。
そうされるのが好きだった、優しくて温かかったその感触は、しかし今はただひたすらにおぞましい。
「なぁ、おい……冗談キツイぜ」
酔ってんだろ。からかってんだろ?
頼むから、そうだと言ってくれ。
唇を引き攣らせながら、じり、と後退る。フランの顔から笑みが消えた。
「どうして拒むの?」
フランがこちらに詰め寄る。赤い瞳に映る、眼鏡を掛けた、強張った顔。手の甲に手のひらが触れて、短く息を吸い込んだ。
「笑って。ねぇ、拒まないで。あなただけ見てきたわ。もうずっと、何年もよ」
お前の言う「あなた」は俺じゃない。
重なる手を、けれど振り払えない。フランが、おずおずと手を伸ばしてくる。
「愛してるのよ。愛してるの。どうして駄目なの? 私が子どもだから?」
これは誰だ。
いつしか掻き毟るかのような勢いで、必死に縋り付くフランを見つめながら、ゆるゆると首を振る。
こんな女は知らない。
フランはいつだって優しくて、時に厳しくて、凛として、気高かった。
激情に浮かされて、拒絶に怯えて、身も世もなく情けを乞うこんな女は、知らない。
「どうしたらいいの。どうすれば私を見てくれるの? あなたのためなら何でもするわ」
お前こそ、誰を見てる。俺に誰を重ねてる?
違うだろ。
俺は、あいつじゃない。
お前だって、そんな女じゃないはずだ。
いつだって、見守ってくれていた。
いつだって、慈しんでくれていた。
なのに、
「あなたのためなら何でもしたわ。あなたが喜ぶと思ったから、私」
やめてくれ。
言いたいのに、喉を通り抜けるのは乾いた空気だけで、どうしても声は出なかった。
やめてくれ。お前が俺を好きだなんてのは失笑ものの勘違いだったって、十分分かった。
もういいだろ。
これ以上、突き付けるな。
「だから、私」
その続きは聞きたくない。
+ + +
バスルームに駆け込んで、シャワーのコックを捻った。
降ってきた水の冷たさに身が竦む。が、歯を噛み締めて、そのまま冷たい雨を受け入れた。
濡れた服が肌に張り付いて不快だった。けれど、その不快さなど物の数とも思わないほどに事態は一刻を争った。眼鏡は廊下で投げ捨てた。この髪の整髪料も、早く落としてしまいたかった。
早く。とにかく、早く。
髪を掻き回しているうちに水が温くなってきた。そこに至って緊張が途切れ、ずるずると、壁に腕を引き摺りながら頽れる。
「──」
壁に凭れた頬を、熱い雨が叩く。水を含んだ髪の先から短い間隔でひっきりなしに雫が落ちるのをぼんやり眺めて、唇を噛んだ。
初めて、重ねた。
不吉なほどに赤い唇が蠢くのを止める方法は、それしか思い付かなかった。
そうするしか出来なくて、ただ抱き締めた。
フランが落ち着くまで、そうして眠ってしまうまで、そんなことしか出来なかった。
あんな風に抱き締めたのも、思えば初めてだった。
腕を回せば易々と収まる、少し力を込めればたわいもなく壊れてしまいそうに細い肩。触れ合えばそれが正解なのだと思えてしまう、いくら自分より高い身長を持っているとはいえ明らかに造りの違う柔らかな体。
女だ。
女なのだ。
母親で、初恋で、誰より完璧で世界の全てだった女は、実はただの女だった。
その事実を思い知らされた。
「サイテー……」
立てた片膝に額を当てる。頭の上からシャワーの雨が降り注ぐ。
このまま溶けて消えて、流れていってしまえばいい。
子どもの頃交わした純粋な約束を盲目的に信じて、甘えていた自分。
これまでそうしてきたようにこれからも二人で歩いていくのだと、欠片も疑わなかった自分。
そうすれば明日からまた、何もなかったような顔が出来る。
フランはきっと何も覚えていない。質の悪い酔い方をする女だ。飲んでいる最中は酔いをおくびにも出さない癖に、一晩明けたら何も覚えていなかった、なんてことが今までに何度もあった。
自分さえ忘れてしまえば、何も聞かなかったのと同じ、何も起こらなかったのと同じ。
フランと自分は従姉と従弟。
それ以上でも以下でもなく、明日からまた元通り。
だから、消えてしまえ。
水の伝い落ちる顔を、ぐしゃ、と両手のひらで擦る。手のひらに付いた赤に、ぎょっと息を呑んだ。
鏡を見る。口許にフランの唇の色が移って、血反吐でも吐いたような顔になっていた。
大惨事だ。
何故だか笑いが込み上げる。
「……馬鹿みてぇ」
フランは母親なんかじゃなかった。完璧な女でもなかった。
愛されていると思っていたのは勘違いだった。
フランが自分に向けていたのは、無償の愛でも燃え上がる熱情でもなかった。
「──じゃあ、何だったんだよ?」
愚問だ。
血反吐を吐いた唇が嗤う。
今更求めたところで、無邪気に望んだ未来はもう、無惨に首をへし折られ地べたに叩き付けられ息絶えた。
最初の記憶は母親が死んだ時のことだ。
物心ついて間もない頃、死なんて概念を理解出来るはずもないあの時、けれどとても大切な何かを失ったということだけは分かっていたようで、ひどく大泣きして手に負えなかったと後になって言われた。
そんなことは覚えちゃいない。
覚えているのは、あの頃は自分の倍も大きかったフランの手のひらに手を繋がれていたこと、見下ろす優しい笑顔、囁かれた台詞。
──大丈夫よ。私が、ずっと一緒にいるから。
+ + +
フランの言葉は嘘ではなかった。
何しろ、人形遊びが何よりも好きな女だ。性別に多少難を感じはしただろうが、手に入れた等身大の人形が余程嬉しかったのだろう、それはそれは献身的に世話を焼いてくれた。
自分だって小学校に上がりたてのほんの子どもでしかなかった癖に、保育園の弁当にと、ひどく不格好な具のない握り飯だのバターも塗らずにハムを挟んだだけのサンドイッチだのを、せっせと作っては持たせてくれた。
仕事一辺倒で息子の成長に気付かない父親に代わり、店に引っ張っていってはあれやこれやと、服だの靴だの身の回りの物を揃えてくれた。
ままごと気分とは言え、着替えや食事は勿論、風呂や添い寝までをこなすその姿は、正に母親のようだった。
フランは、ずっと傍にいる。
子どもが母親を慕うように、当たり前の気持ちでそれを期待した。そしてその期待は、母が子に注ぐ愛のように、絶対に自分を裏切ることはないと思っていた。
フランはずっと、傍にいる。
フランさえいれば、それでいい。
フランへのこの執着を、マザコンというのなら自分は確かにマザコンなのだろうし、恋というのなら自分の初恋は間違いなくフランだ。
つまり、フランは完璧だった。
自分にとっての世界は、フランで全てだった。
+ + +
「随分と遅いお帰りね」
自室の扉を開けたその瞬間、部屋の中から声を掛けられ、思わず立ち竦んだ。
誰もいないはずの部屋だから、という理由ではない。夜遊びを咎められると思ったから、でもない。
視界が白い。
「叔父様のお帰りが遅いからって、羽を伸ばしすぎではない? 高校生の出歩く時間じゃないわよ」
「──フラン」
その健全であるべき高校生の部屋で、お前は何をやってんだ。
突っ込みたい気持ちを堪え、その真ん前を──つまり部屋の中央を横切り、窓を全開にする。床のラグに腰を下ろし、ベッドに寄り掛かった格好で、フランは紫煙を燻らせていた。
「お前。人の部屋燻すなよ」
「あら。あなたの机の上にあったんだけど」
片付けるのを忘れていた。舌を打ったその時、フランが、瞳を細めてこちらを見た。
「やめておきなさい。子どもの吸う物じゃないわ」
「偉そうに。お前、俺といくつも変わんねぇだろ」
「同じ18歳でも、高校生とそれ以外の差は大きいわよ」
そして、私はきちんと20歳を超えているわ。
含み笑いをして、煙草の端を咥える。咥えると言うよりは、差し込む。ほとんど唇を開けない、そんな吸い方だ。
「心配してるのよ。背が伸びなくなるでしょう」
「180超えてりゃ十分だ」
「でも、私より低いじゃない」
さらりと地雷を踏まれた。
こちらの機嫌というかプライドというかが絶妙に損なわれたのを察したのだろう、フランは、長々と煙を吐いた後に、言った。
「……ま、男の価値は身長じゃないけど」
「それ、このタイミングで言われても、全く信憑性感じねぇ」
「あら。本当よ」
赤い唇が、に、と笑う。お前こそ何時だと思ってんだ。化粧落とせよ。心中で毒突く。
「デートだった?」
灰皿に灰を落としながら、フランが言う。話題を逸らしたこと──つまり、こちらの機嫌を取ろうとしていること、が分かった。
「だったら何だよ」
「この前一緒に歩いてたあの子でしょ? 連れてきてくれればいいのに」
可愛いお店見つけたのよね。紫煙と一緒に言葉が漏れる。このところ、フランの着せ替え人形のターゲットは、そろそろ反抗期も終盤の従弟ではなくその彼女、なのだ。
「冗談。嫌だね」
「独り占めしなくてもいいでしょう? あなたの彼女、可愛いから。着飾らせ甲斐があるのよね」
物心付いて以来どっぷりフランに浸かってきたからか、それとも生来のものか。今となっては分からないが、フランと自分が選ぶ物はよく似ていた。食べ物や服装の趣味は勿論、女の好みまでが、呆れるほどに。
「服とメイクで可愛らしさ倍増の彼女、見たくはない?」
頬杖を突いたフランが、こちらを見上げてくる。
フランの腕を否定はしないが、それで機嫌を取っているつもりなら逆効果だ。目を眇めてフランを見下ろした。
「その甘言に乗って、デートおシャカにされんのはもう沢山」
過去にフランに会わせた女友達が、自分そっちのけでフランと盛り上がっていたのを思い出す。
「何でみんな、俺とじゃなくてお前といる方が楽しそうなんだか」
苦々しく言ったのに、フランがくすくす笑った。
「仕方ないわ。女の子だもの」
「意味分かんねぇ」
「可愛くなりたいに決まってるでしょう」
当たり前のように言われる。けれどその「当たり前」が、どうも目の前の従姉にはそぐわない。
「お前も?」
聞き返すと、フランは僅か、首を傾げた。
「どちらかといえば。可愛くしたい、かしら」
「……納得」
息を吐いて、窓際の壁に背を擦りながら腰を下ろす。早く煙が抜ければいいのに。思いながら、開けた窓から夜空を見上げる。
他人の煙草の煙は嫌いだ。冷えるような眩暈に溺れたい、欲求が誘発される。しかし、フランにああ言われた以上、吸えるはずもない。
「だってあなた。本気じゃないでしょう」
「──あ?」
聞こえた声に、振り返る。フランが、素知らぬ素振りで煙草の灰を落としている。
見やった瞬間、瞳に痛みが奔った。
「あ。て」
手のひらで片目を押さえる。残された視界の中で、フランがこちらを見た。
「どうしたの」
「コンタクト、ズレた」
目蓋を押さえて復帰を試みるが、戻らない。
「大丈夫?」
「ダメ。外す」
立ち上がろうとしたのに一歩先んじて、フランが机の上のコンタクトレンズのケースを取って寄越してくれた。
「サンキュ」
受け取ったケースの鏡を覗き込む。笑えるくらいにズレていた。痛みは笑い事ではないので慎重かつ迅速にコンタクトレンズを外していると、フランがふ、と溜息を吐いた。
「大変ね」
「仕方ねぇだろ」
視力は、矯正が必要な程度に悪い。
まだ小学生だった時分、学校から持ち帰った視力検査の結果をフランに見せるのが嫌だった。暗いところで本を読んでいるから、テレビに近付きすぎだから。普段言われ続けてきた小言を、ここぞとばかりに繰り返されると思ったのだ。
けれどフランは叱りはしなかった。紙切れに書かれた、一定値を下回った数値を見つめてほう、と溜息を吐いた後、叔父様もそうだから仕方がないわね、と諦めにも似た笑みを浮かべただけだった。
「眼鏡の方がいいのではない?」
中学に上がってコンタクトレンズが欲しいと言った時と同じ台詞。フランには体に異物を入れるということが想像できないようで、自身、派手に着飾った外見の割にはピアスの一つもあけていない。
「嫌だね」
こちらも当時と同じ台詞を返す。眼鏡は一々鬱陶しいし、体育の授業で邪魔になる。コンタクトレンズも面倒ではあるが、自分にとってはこっちの方が格段にQOLは上だ。
「はい」
コンタクトレンズを外した頃合いを見計らって、眼鏡が差し出された。
「いい。コンタクト入れ直す」
「後はもう寝るだけでしょう? 外してしまえばいいじゃない」
「あー……」
それもそうか。思って、コンタクトレンズを片付け、眼鏡を掛けた。素直な態度が気に入ったのか、フランが満足そうに微笑む。
「それで、何だって?」
「何?」
「さっき、何か言いかけただろ」
「……あぁ」
会話の記憶を遡って、フランは小さく頷いた。
「あなたが本気じゃないから、という話よ」
「それ。何がだよ」
訊いたのに、フランは薄く笑みを浮かべる。何やら小さな石だのラメだのが光る長い爪の指が、吸い差しの煙草を灰皿に押し付けた。
「暇つぶしのつもり? それとも、経験値を上げたいのかしら」
「だから、何が」
訊き返した瞬間、それが少し前に投げ掛けた問の別解なのだと思い至った。
唇で微笑しこちらを眺めるフランの表情は常と変わりなく、口調も穏やかだ。が、煙草を揉み消したその仕草が暗に自分を責めているようで、思わず、僅か、身を竦ませた。
「そんなつもりはねぇ、けど」
「そう」
それ以上は何も言わず、フランはコンビニの袋から飲料の缶を取り出した。気付けば、ローテーブルの上には既に中身がないらしい缶がいくつか載っている。
つまみも一緒に食え。てか酒と煙草のコンボはやめろ。
忠告を口にする気にはなれず、大方煙が抜けたのを確認して窓を閉めた。向かい合わせに座るのは気まずくて、視線を避けるように、フランが背凭れにしているベッドに腰を落ち着ける。
フランは、ごてごてと飾り付けた爪で器用に開けた缶を、素知らぬ顔で傾けている。その姿を眺めているうち、じり、と苛立ちが湧く。
人の気も知らないで。
睨む視線にも、フランは気付かない。そのことにまた、苛立ちが募る。
お前はどうでもいいのか。俺が他の女に本気になっても、何とも思わねぇのかよ?
吐き出しそうになって、呑み込む。
こんなことは、初めてじゃない。15になったら、18になったら、フランの身長を超えたら。関係性を変えようと思ったことは何度もあって、けれどその度に怯んだ。拒絶されるのが怖かった。
自分にとって、フランは全てだ。フランに拒絶されたら、身長でからかわれることの比じゃない。絶対に立ち直れない。
長く伸ばした髪。挑発的な服。長い爪、飾るアクセサリ、化粧。
そんな物、塗らなくていいのに。缶に触れた唇を見て思う。高校を卒業して以降のフランは、実際の年齢差よりも随分と遠く、大人に感じる。
焦る。
「──あなたも飲む?」
「あ?」
缶を一つ、こちらに差し出しながら、フランが首を傾げる。それで気付いた。
手を、伸ばしかけていた。
「──馬鹿。酒だろ、それ」
中途半端に宙に浮いていた手を取り繕うため、そっち、とスポーツドリンクのペットボトルを指さす。フランはそうね、と笑いながら缶を戻して、ペットボトルを取って寄越した。
ヤバイ。
手の中のペットボトルを握り締める。行き場を失った衝動を、ペットボトルの蓋を開ける力に無理矢理変換する。
馬鹿じゃねぇの。何しようとしてんだよ俺?
灯った熱を冷ますように、スポーツドリンクを喉に流し込む。酒を呷った後のように、深く息を吐き出す。
15になって、18になった。フランの身長を超えることはどうやら出来なさそうだと、薄々察し始めた。自分で設置しては見送り続けたハードルの、最後の一つはどう足掻いても越えられそうにない。
だったら、このままでいい。
約束したのだ。フランはずっと、傍にいる。
馬鹿なことを言い出して、わざわざこの心地よい関係を壊す必要などない。
このままで、いいじゃないか。
「……つか、お前さ」
何気ない顔で、口を開く。炭酸入りだろうに、指先で摘むように持った缶をゆらゆら揺らしていたフランが、ゆっくりとこちらを向いた。
「人の女にちょっかい出すよりか、他にやることあんだろ。週末の夜に、相手してくれる男の一人もいねぇの?」
若い女が従弟相手に酒盛りってのはどうなんだ。
言うと、フランは、殊更のように目を見開いた。
「心外だわ。相手をしてもらうために、わざわざ足繁くここに出向いてるっていうのに」
「……は?」
一瞬、思考が止まった。
どういう意味だ。
相当に間抜けな顔をしていたのだろう。こちらをしみじみ見やって、フランはほう、と呆れたように息を吐く。
「男って、どうしてこう鈍感なのかしら」
呟いて、フランはまた煙草に手を伸ばす。しなやかで優雅、豪奢な印象の手に全く似合わない、安っぽいライターに火が点るのを呆然と見つめる。
だから、酒と煙草のコンボは。せっかく煙が抜けたのに。いや、そんなことはどうでもいい。それこそどうでもいいことばかりが頭の中を渦巻いて、言葉が口から出て来ない。
まさか。
その相手って、
「……お前。酔ってんな?」
何を言っていいか分からない。ようやく口から出たのは、そんな言葉だった。
「酔ってないわ」
「嘘吐け」
「本当よ」
「信用できるか」
次々とさり気ない振りで繰り出した言葉には、しかし明らかに動揺が滲んでいた。指に煙草を挟んだ手で頬杖を突きながら、フランはくすくす笑う。
「大変な驚きようね」
「……うるせぇよ」
フランに虚勢は無意味だ。誤魔化すのはやめて、素直に息を吐く。
「気が付かなかった?」
「だってお前。今まで、そんな素振り」
「だから鈍感だって言うのよ。何年越しだと思ってるの?」
15年だ。
フランが自分の母親になってからの年月なら──自分がフランを思い続けてきた時間の長さなら、即座に答えられる。けれどいつ、フランが母親としてでなく自分を見つめ始めたのかなんて、そんなことは分からない。
分からないが、
──うわ、ヤバイ。
両手のひらで、頬から首筋を擦る。抑えようもなく笑みが浮かんでしまう唇を、覆う。
すげぇ嬉しい、かも。
視線を上げると、フランと目が合った。手のひらが、呼ぶ。
寄り掛かっていた壁から離れてベッドの縁までにじり寄ると、煙草を持たない方の綺麗に彩った長い爪の指が伸びてきて、短い前髪をそっと掻き上げた。
中学までは、特に何もせず下ろしていた。高校に上がってある程度髪型の自由が利くようになった頃、フランに言われた。前髪は上げた方が似合うわ、と。
今も、前髪は上げている。整髪料で固めていて大して手触りもよくないだろう髪に、フランは柔らかく指を通す。
愛おしむ手付き。
今まで数え切れないほどそうされた、けれど今のこれはきっと意味合いが違う。
「──」
フラン。
呼ぼうとした声は、みっともなく喉に絡みついて出て来なかった。だから声もなくただ見つめれば、赤い瞳が気付いて優しく微笑む。
抱き締めたい。
込み上げた衝動をいつものように呑み込もうとして、気付く。もう、堪える必要はないのだ。
触れられるばかりでなく、触れたい。
フランがまだ長い煙草を灰皿に押し付けた。最後の煙が立ち上り、溶けていく。
こちらを見やる瞳、伸ばされる手、その手を掴む権利が自分にはあるのだ、冷たい手のひらが頬に触れる、温めてやりたい、しなやかなその手を包み込もうとした瞬間。
「本当に、似てるわね」
うっとりと微笑みながら、フランが呟いた。
「……あ?」
時間が止まったような気がした。気のせいだ。やたら秒針の音がやかましい枕元の時計が、きちんと時を刻んでいる。
こんな時に、何の話だ。
タイミングを失って空を掻いた手を、ベッドカバーの上に戻す。フランはただ、無心に髪を梳き撫でている。
「あの人、若い頃は、こんな顔してたのかしら」
囁く声。その声に、眉を顰める。
「……何だって?」
答えを返さないまま、フランがこちらの手を引く。引かれるまま、ずるりとベッドから降りる。細い指がそっと、頬の線を辿った。
「──あの人も、こんな顔、するのかしら」
見ているのに、見ていない瞳。
確かに視線は合っているのにどこか遠い瞳で見つめて、フランは笑った。
+ + +
何かがずれていく。
何かが、噛み合う。
あの人って、誰だよ。
訊くまでもない。幼い頃から言われ続けてきた。
自分は父親によく似ている、と。
髪を、頬を、フランは撫で続ける。その顔を、呆然と見つめる。
マジかよ。
だって、お前。
あいつは。
俺の。
お前にだって。
だから、
相手にされるわけがない。思って、気付く。
長く伸ばした髪。挑発的な服。長い爪、飾るアクセサリ、化粧。
具のない握り飯にハムを挟んだだけのサンドイッチ、与えられた服や靴。
固執した眼鏡と髪型。
──「叔父様もそうだから」、「前髪は上げた方が似合うわ」。
吐き気がする。
鼓動が、頭の中にまで響く鼓動が、うるさい。
まさか。
そんな馬鹿なこと、有り得ない。
否定したがる頭のどこかで、でもそれが間違いではないと知っている。
フランが実際の年齢よりも大人びて見える今の姿を選んだのは、
人形遊びの延長だろうがどれほどままごとめいていようが、
そうまでしてオ レ ノ ハ ハ オ ヤ ニ ナ ロ ウ ト シ タ リ ユ ウ ハ、
「そんな顔しないで」
頬に、手のひらが触れた。思わず、ぎくりと肩を揺らす。
そうされるのが好きだった、優しくて温かかったその感触は、しかし今はただひたすらにおぞましい。
「なぁ、おい……冗談キツイぜ」
酔ってんだろ。からかってんだろ?
頼むから、そうだと言ってくれ。
唇を引き攣らせながら、じり、と後退る。フランの顔から笑みが消えた。
「どうして拒むの?」
フランがこちらに詰め寄る。赤い瞳に映る、眼鏡を掛けた、強張った顔。手の甲に手のひらが触れて、短く息を吸い込んだ。
「笑って。ねぇ、拒まないで。あなただけ見てきたわ。もうずっと、何年もよ」
お前の言う「あなた」は俺じゃない。
重なる手を、けれど振り払えない。フランが、おずおずと手を伸ばしてくる。
「愛してるのよ。愛してるの。どうして駄目なの? 私が子どもだから?」
これは誰だ。
いつしか掻き毟るかのような勢いで、必死に縋り付くフランを見つめながら、ゆるゆると首を振る。
こんな女は知らない。
フランはいつだって優しくて、時に厳しくて、凛として、気高かった。
激情に浮かされて、拒絶に怯えて、身も世もなく情けを乞うこんな女は、知らない。
「どうしたらいいの。どうすれば私を見てくれるの? あなたのためなら何でもするわ」
お前こそ、誰を見てる。俺に誰を重ねてる?
違うだろ。
俺は、あいつじゃない。
お前だって、そんな女じゃないはずだ。
いつだって、見守ってくれていた。
いつだって、慈しんでくれていた。
なのに、
「あなたのためなら何でもしたわ。あなたが喜ぶと思ったから、私」
やめてくれ。
言いたいのに、喉を通り抜けるのは乾いた空気だけで、どうしても声は出なかった。
やめてくれ。お前が俺を好きだなんてのは失笑ものの勘違いだったって、十分分かった。
もういいだろ。
これ以上、突き付けるな。
「だから、私」
その続きは聞きたくない。
+ + +
バスルームに駆け込んで、シャワーのコックを捻った。
降ってきた水の冷たさに身が竦む。が、歯を噛み締めて、そのまま冷たい雨を受け入れた。
濡れた服が肌に張り付いて不快だった。けれど、その不快さなど物の数とも思わないほどに事態は一刻を争った。眼鏡は廊下で投げ捨てた。この髪の整髪料も、早く落としてしまいたかった。
早く。とにかく、早く。
髪を掻き回しているうちに水が温くなってきた。そこに至って緊張が途切れ、ずるずると、壁に腕を引き摺りながら頽れる。
「──」
壁に凭れた頬を、熱い雨が叩く。水を含んだ髪の先から短い間隔でひっきりなしに雫が落ちるのをぼんやり眺めて、唇を噛んだ。
初めて、重ねた。
不吉なほどに赤い唇が蠢くのを止める方法は、それしか思い付かなかった。
そうするしか出来なくて、ただ抱き締めた。
フランが落ち着くまで、そうして眠ってしまうまで、そんなことしか出来なかった。
あんな風に抱き締めたのも、思えば初めてだった。
腕を回せば易々と収まる、少し力を込めればたわいもなく壊れてしまいそうに細い肩。触れ合えばそれが正解なのだと思えてしまう、いくら自分より高い身長を持っているとはいえ明らかに造りの違う柔らかな体。
女だ。
女なのだ。
母親で、初恋で、誰より完璧で世界の全てだった女は、実はただの女だった。
その事実を思い知らされた。
「サイテー……」
立てた片膝に額を当てる。頭の上からシャワーの雨が降り注ぐ。
このまま溶けて消えて、流れていってしまえばいい。
子どもの頃交わした純粋な約束を盲目的に信じて、甘えていた自分。
これまでそうしてきたようにこれからも二人で歩いていくのだと、欠片も疑わなかった自分。
そうすれば明日からまた、何もなかったような顔が出来る。
フランはきっと何も覚えていない。質の悪い酔い方をする女だ。飲んでいる最中は酔いをおくびにも出さない癖に、一晩明けたら何も覚えていなかった、なんてことが今までに何度もあった。
自分さえ忘れてしまえば、何も聞かなかったのと同じ、何も起こらなかったのと同じ。
フランと自分は従姉と従弟。
それ以上でも以下でもなく、明日からまた元通り。
だから、消えてしまえ。
水の伝い落ちる顔を、ぐしゃ、と両手のひらで擦る。手のひらに付いた赤に、ぎょっと息を呑んだ。
鏡を見る。口許にフランの唇の色が移って、血反吐でも吐いたような顔になっていた。
大惨事だ。
何故だか笑いが込み上げる。
「……馬鹿みてぇ」
フランは母親なんかじゃなかった。完璧な女でもなかった。
愛されていると思っていたのは勘違いだった。
フランが自分に向けていたのは、無償の愛でも燃え上がる熱情でもなかった。
「──じゃあ、何だったんだよ?」
愚問だ。
血反吐を吐いた唇が嗤う。
今更求めたところで、無邪気に望んだ未来はもう、無惨に首をへし折られ地べたに叩き付けられ息絶えた。
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